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姓のお話、2回目は第2位の鈴木さんかなとも思ったが、佐藤さん、もう一度いこう。
巷でも、ここでも、資料を見ながら佐藤さんならああだこうだと、ある程度断定的なことを言うが、実際のところはそんな単純なものではないのである。
姓というのは確立された年代もルールもバラバラなので、本当はルーツも複雑怪奇なことになっているのだ。佐藤さんのルーツはこうこうですよというのは、「佐藤さんなら首相になれますよ」と言うのに匹敵するぐらいの、真理の一面に過ぎないことをお断りしておこう。
アバウトな私は、そこまで精度の高い物を書くつもりはないし、そもそも書けないのである。
つまり、このブログで書いてあることは参考資料にはしないでね。
話半分にしといてね。
ということなのである。
我々は適当に「名字」とか「姓」とか言うが、氏(うじ)姓(かばね)から続くもの、地名、職業から受け継がれたもの、適当に(本当に)付けられたものなどなど、多岐にわたっているものなのだ。
本来、氏(うじ)姓(かばね)と名字、苗字、姓(せい)は区別されるべきものだがごっちゃに使われていることも読み解きがたい原因となっている。
ここでは、そんなややこしい事は言わずにお気楽に姓のあれこれ断じてみようかと思う。
何時頃から日本一になったのか知らないが、佐藤さんにしても、多くなった理由は、藤原一族で権勢を誇ったからという訳でもない。
地名に基づく場合も(佐藤さんの場合は『?』)多かっただろうし、近世になって名乗る場合に名乗りやすかったという理由もある。
名乗りやすいというのは、例えば領主等に佐藤姓が少なかったから佐藤姓が増えた、という事もある話だ。上位の人の姓を名乗るのは命がけだったでしょうから。
佐藤姓のルーツと云われる佐藤公清の左衛門尉と言う官職、実は権勢を誇って広がるほど、それ程高い身分ではなかったらしい。六位の北面武士という事なので、上からみたらボチボチの地位だった。
そのままぼちぼちと、その後ずっと栄えたのかといえばそれもそうでもない。
平清盛などと同世代の佐藤義清というのがいた。
この人が本家継承者だったのだが、23歳で失踪、否、出家をしてしまったのだ。
理由は不明、ただ、出家して歌を詠みながら日本中を放浪したおかげで、
やたらと有名人になってしまった。
本来の彼の身分なら歌を詠んでも勅撰集などには”よみびとしらず”として、名前など載せてもらえなかったのだが、出家したおかげでポンポン名が売れるようになったのだ。
失恋のためという説もあるが、世の無常をはかなみ(という名目で)出家し、2000首近くの歌を残し、50年あまり全国を仕事しつつ歩き回ったようである。
いくら昔とはいえ、50年間、放浪するにはそれなりの資金が必要なはず。
どこからか出資されていたのかどうかは知らないが、おそらく家財を、食いつぶしてしまったのではないかな。佐藤家はその後表舞台にはあまり現れなくなっていった。
そして、佐藤家の後世数世代が得るべき栄華をすべてカバーして余りあるほどの評価を西行法師は得る事になったのであった。
和歌などにはとんと疎い私でも、有名なこの歌など、さすがに響いてくるのである。
『ねがはくは花のしたにて春死なん そのきさらぎの望月の頃』
この佐藤義清さんが出家したおかげで佐藤姓が日本一多い姓になったのかどうか?
それは、私は知らない。
770年、・・・。
西行さん!また泊まりにこんかな。
もうあの松は、のうなってしもうたけんどな。
『ここをまたわがすみ憂くてうかれなば 松はひとりとならむとすらむ』